弾丸中欧横断旅 の巻
みなさんこんばんわ
よんす。です
リアルタイムは17日お昼の2時
トルコのカッパドキアという町にいます
気づけば10日もブログを放置するというブロガー失格(ブロガーなのか?)
な失態を犯していました。
言い訳させてもらいますと移動&宿のwifi環境が悪くてですね
中々更新できなかったんですよ
しかしあれですね
年末に近づいてくると日過ぎるのが早く感じませんか?
気づいたらもう10月も中旬ですよ。
もうマジで旅終盤ですよ
ブログランキングに参加しています。
お気持ちだけでもポチッと残していってくださいな
はい
前回までの少し重ための内容とはおさらばして
今日は軽めの移動&観光ブログです
ポーランドを出てからトルコ目指して一気に移動してきました
ちなみに移動はすべて夜行バスです。
もう一生分夜行バス乗った気がします。
でもバスは余裕で南米のほうが快適でした
ヨーロッパのバスは基本リクライニングがしょぼくて
中々眠れません
でも安全面でいうと比べもんになりませんけどね
さてさて
ポーランドを出て
まずはオーストリアのウィーン
音楽と芸術の町
時計。
夜にはオペラのライブが
貧の僕はビジョンで楽しみます
でも世界観が一ミリも理解できなかったので夜の町へと消えます
モーツァルトの生まれ?育った町なんですってね
モーツァルトん家
「あーそーぼ」
なんて気軽にインターホン鳴らせませんでした
モーツァルトが結婚式を挙げた教会
町並みは群を抜いて素敵でした
かつての王族が嗜んでた本がこれでもかってぐらい積み上げられてました
フリーメーソンの展示。
ウィーンは残念ながら一泊だけでしたが
いつかまた来る時があったらその時は
ドレスコードをばっちりキメてオペラの鑑賞でもしたいと思います
このあたりから町の中にユダヤ教会を多く見るようになります
ハンガリーでは日本人宿に泊まったんですけど
居心地があまりにも良くて
5泊もしちゃいました笑
その分の1泊でもウィーンに割けよって話ですよね
でもいいんです
これが僕の旅なんで笑
さすがに5泊もしたんで町はだいたい行けましたね
左側がブダ
右側がペスト(多分)
両方合わせてブダペストです
この丘からの景色はほんとに素敵でした
夜景。
日本人宿に泊まっていた何人かで行ったんですけど
一人で来ていたら恐らく相当みじめだったと思います笑
世界一きれいな国会議事堂
こんな豪華な国会議事堂ってあっていいんかなって思うぐらい
パッと見宮殿ですよね
ここで無残に殺されたユダヤ人の靴のモニュメントがありました
子供の靴からハイヒールまで。
当時の悲劇を忘れないように。
ちなみにここハンガリーからも多くのユダヤ人がアウシュヴィッツに連行されました。
豪華絢爛なキリスト教会と対照的にシックな内装
様々な宗教、文化が入り交じるハンガリー
とても興味深い街でした。
そんなハンガリーに別れを告げ
セルビアへと向かいます
旅初の鉄道での国境越え(夜行)
駅
なんか映画に出てきそうな建物でテンションが上がります
列車の落書きを見てテンション下がります
列車の中でパスポートチェックがあったんですけど
それが何回もあって
しかもその度に起こされるから完全に寝不足で
ですが下調べをまったくしない状態で行ったので
全くわかりません笑
とりあえず中心地をブラブラ。
セルビアってどこやねんって感じですよね
ただ想像していたよりも町は明るく意外にも栄えてました
丘からの眺めがいちいち良い。
小さい町なので一日で観光終了
ここも一泊。笑
そしてブルガリアの首都 ソフィア へ。
ここも一泊の予定でしたが干していた洗濯物が雨でずぶ濡れになったので
2泊を余儀なくされました。
ここらへんからキリスト教会がイスラム教のモスクの建築になってきます
ほんとに立派な建物。
いかに人々の中に宗教が根付いているか
また、どれほど大きな存在になっているか
が分かります。
旧共産党本部。
ブルガリアもそうですが
この周辺国は東欧と呼ばれ、旧ソ連国だった国が多く、
ヨーロッパの中でも少し地味な印象です
建物も少し暗めだったり
人々もすこーし暗め。
まーでも
やっぱり歴史があるところばっかりなので
見ていて、歩いていて
飽きることは無かったですし
興味深い時間を過ごせました。
ヨーロッパの中でも
イタリア
オランダ
イギリス
などの国を省いた理由は
金銭面的な部分もありますが
この辺の国は恐らく今後何かと行く機会があると思ったからです
今回横断してきた国は時間が余程余ってなかったら旅行で訪れることは少ないと思います。
今回このタイミングで訪れてみて
肌で感じて
勉強になったことも多かったので
ナイスチョイスしたと言えるでしょう
それでも
など
興味がある国は行けてませんし
旅は尽きること無いなって改めて感じました
人生は長いようで短い
どう過ごすかは本人次第
やりたいことやってようが
やりたくないことやってようが
あっという間。
常識に囚われすぎず
人生で何がしたいか
いい人生ってなんなのか
答え探しの人生っていう旅はずっと続きます。
ブルガリアを抜けて
現在はトルコにいます
トルコってアジアなの?
ヨーロッパなの?
昔から西洋と東洋の交差点とされてきた場所。
トルコを抜ければ一気にインドへ
最終章は目の前です。
本日も最後までお読みいただきましてありがとうございました
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それではまた。
近代史上最悪の虐殺 ~非人道~の巻
みなさんこんばんわ
よんす。です
リアルタイムは5日夜10時
これから夜行バスでヨーロッパ最後の国 ブルガリアに向かいます
夜行バス飽きました。
早速前回の続き行きたいと思います
今日もポチッとよろしくお願いします
アウシュビッツで何が行われていたのか。
ネットで検索すれば大体の出来事は知ることが出来るでしょう。
でもそれだけじゃダメな気がします。
この世に生まれた人間として訪れておくべき場所な気がしたのです。
気軽にヨーロッパに旅行が出来るようになった時代ですが
日本からアウシュビッツに訪れる人はかなり少ないらしいです。
場所的な問題では無い気がします。
どこか傍観者というか
そういった歴史に無関心な気がします。
僕は今回こうして訪れるチャンスが巡ってきたので実際に行ってみました。
以下写真と共に。
民族浄化と強制労働を目的に様々な場所から多くの人が連れて来られます
ほぼヨーロッパ全土から。
連れてこられた人の合計は130万人と言われています。
着の身着のまま連れ出され、貨車へと押し込まれ
明かりも、食事も水も殆どない中での移動でした。
遠いところからだと1週間近くかかったらしいです。
トイレも眠るスペースも無かった貨車で1週間。
当然アウシュビッツに到着するころには既に亡くなっている人も多くいたそうです。
各地域から連れ出される際、ドイツ軍から十分な説明などなく
「新しく生活する場所に連れて行く」
や
「保護する」
などといった抽象的な説明だけでした。
連行される人の中には強制的な移民措置だと考え土地や家を売り払い
全財産を持ってくる人もいました。
通称 死の門
門の上のアーチには
「働けば自由になれる 」
と書かれていますがこの門をくぐって元の生活に戻れた人はほとんどいません。
各地方から連れてこられた人はまず
「選別」
を受けます
働けそうなより健康なものと
障害を煩っていたり
労働力とみなされないものとに選別されます。
労働力としてみなされなかったものは
「シャワー室」
へと連れていかれます。
このシャワー室とはなんなのか。
は後ほど。
敷地内は有刺鉄線が何重にも重なった金網で囲まれています。
当時はこの有刺鉄線に電流が流れていて
あちこちの監視塔から常に銃口がのぞいていて
脱走は不可能でした。
没収したメガネ。
没収した食器類。
没収した靴。
どれもほんの一部です
敷地内はこのような建物がびっしりと建っています。
選別に通って労働者となった人の1日
鐘の音と共に長い1日が始まります。
これから始まる強制労働。
当時の食事
まともな物を食べさせてもらえず
多くの餓死者が出ました。
ひたすら労働。
労働中に力尽きる人も
端っこでヘラヘラしているドイツ軍兵士。
選別に通ったからと言って助かったわけではありません
選別に通っても
飢餓による
病気による
過酷な労働による
見せしめによる
様々な
死
が
収容者を待っていました。
通称 死の壁
このレンガの前にあるもう一枚の壁の前に立たされて
見せしめのために銃殺されます
銃殺される前に服を脱がされました。
選別を通らなかった80%の人はシャワーを浴びさせると言われて
シャワー室へと連れて行かれました
ですが
ここはシャワー室なんかではありません。
そこは人を殺すためのガス室。
ここに押し込み毒ガスを投げ入れ
一気に大量の人間を殺しました。
シャワーという建前はこの部屋に連れてくるため
当時はダミーのシャワーヘッドがあったらしいです。
実際に使われたガスの缶
中身は殺虫剤のようなものでこのガスで20分かけてじわじわと人を死に至らしめます
そして殺された人はすぐ横にある
焼却炉ですぐに焼かれてしまいました。
驚くべきは焼却作業を同じ収容者にさせていたということ。
そうすることによって人間から正気を奪いました。
連れてこられたうちの80%の人はここで命を落としました。
選別を通っても待っているのは
死
選別を通らなかったら即
死
収容所は常に多くの
死
で溢れかえっていました
毎日何千、何万もの人が連れてこられ
毎日、罪のない人が殺されました。
この悪の所業は終戦間近まで続いたそうです。
敗戦濃厚を悟ったドイツ軍は収容所を破壊し
証拠隠滅を図ろうとしました。
そして終戦し連合軍がこの収容所を発見したときは
まさに
「地獄」
だったそうです。
どうしてこんなことが出来るのか
なんでこんなことをしたのか
そんなことは自殺したアドルフヒトラーにしか分かりません。
ただひとつ事実があるとしたら
そのヒトラーを選んだのは皮肉にも
ドイツ国民。
僕の言いたいこと分かりますか?
国民が選んだリーダーが起こした行為なのです。
戦争も虐殺も。
強い国を求めるがあまり
こういった悲劇が生まれたのです
ひとりひとりの一票が生んだ悲劇なのです
当時のドイツ国民はこんなことになるなんて思わなかったでしょう。
ただそんなことは言い訳にもなりません。
政治に無関心だったから私には関係ない。
そんな無責任な話はありません。
自分に直接的な影響がなかったら無関心でいいんでしょうか
何気ない一票でこんなにも恐ろしいリーダー、歴史は生まれるのです
ここまでの悲劇は起きないかもしれませんが
残虐的なリーダーが生まれる可能性はどの国にもあり得る話なのです
日本も例外なく。
国を守る
という大義名分の為に他国が滅んでいいはずがありませんよね
でもあなたが投じた一票
リーダー次第ではそんなことになる可能性があるんです
実際、集団的自衛権が可決されたり
イギリスがEUから離脱したり
ト〇ンプ大統領が生まれたり
少しずつ世界は動き出しているような気がします
あなたは無関心、傍観者のままですか?
ドイツはこのような歴史を経て
現在は多くの難民を受け入れている国のひとつです
多くの難民を受け入れ支援しています
そのお金はどこから?
国民の税金から
税金ってただ財布から少し多めにお金が減るだけじゃないんですよ
日本の納税者の中で税金がどのくらい何に使われているかを知ってる人ってどれぐらいいますか?
ってか
関心ある人ってどれぐらいいますか?
ちゃんと意義のあることに使われていますか?
税金の使い方を決めれるのは政府です。
その政府を決めるのは国民ですよ。
世界で大きな出来事が起きた時
知らんかったじゃ済まされません。
前回の記事で写真を載せたヒトラーがやっているポーズ
ドイツ っていうか世界中でタブーのポーズです。
日本の選手宣誓時のポーズに似ているため最近少し問題視されています
このマークはナチスドイツの親衛隊のシンボルです
以前サッカーの試合でガンバのサポーターがこれに似た旗を振っていて問題になったのですが
当事者
「知らなかった」
話になりません。
だから日本の常識は世界の非常識なんて言われるんです
今回のアウシュビッツ訪問を通して考えたことはたくさんあります。
どの問題も正解にたどり着くことはとても難しいです
っていうか正解なんてないかもしれません。
だからといって考えなくていいかというと
そうではありません。
目に見える世界だけが世界じゃないし
目に見えないことに対して少しでも関心を持つ
勉強する
その集合体が世界を変えていくのではないでしょうか
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非常に長くなってしまいました。
最後に付け加えておくと
僕の国籍は 韓国 です
現在の日本は外国人による参政権は認められていません。
排他的でいないと国を保てないのでしょうか
そんな弱国ではないと思います。
どんどん人口が減少していく日本。
これからどのように変化していくのか。
少しの期待を込めてブルガリアへと行ってきます
近代史上最悪の虐殺 ~序章~の巻
みなさんこんばんわ
よんす。です
リアルタイムは4日夜11時
セルビアってどこ?
って感じですよね笑
マケドニアが独立し
ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立し
残るセルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国を成立しましたが
しばらくしてモンテネグロが独立したため
残ったセルビアもそのまま独立国家となりました
とりあえず色んな国と接してる国です
今日も元気に1クリックお願いします!!!
さて
今日のブログはタイトルにもありますように
少し暗めの内容です
隣国のポーランドへと向かいます
ポーランド最大の目的地
「アウシュビッツ強制収容所」
さすがにこの名前は聞いたことありますよね
ご存知の方の中には
「えっ アウシュビッツってドイツにあると思ってた!」
って人もいるかも知れませんが
実はポーランドにあるんです
ポーランドのオシフィエンチムという町をドイツ語で読んでアウシュビッツ。
声に出すのも文字を読むのも嫌がるそうです
そのオシフィエンチムで一体なにがあったのか。。。
人類史上最大最悪の悲劇は皮肉にも市民の手によって始まったのです。
~政治への関心度の低い同世代へ何かのきっかけになったらと思います~
簡単に説明すると
時は第一次世界大戦終焉
敗戦国となったドイツ。
戦勝国に領土を大幅に取られ、多額の賠償金を請求されます。
そんな中、世界中を襲った「大恐慌」
アメリカやイギリス・フランスはこの恐慌を乗り切るために
ある政策を行います
その政策とは自国や植民地、自治領、つまり内輪だけで貿易を行って
経済の活性化を図るというものです
外国製品には多額の税金をかけて。
でもこの政策はおっきな国土やたくさんの領土が無いと出来ません
この政策に悩まされたのが
そう
ドイツ
イタリア
ピーンと来ました?
日独伊三国同盟ですよ
イタリアは第一次世界大戦の敗戦国では無いのですがこれといって領土はありませんでした
ドイツも同様、敗戦国であるがため減っていく領土、支払えない賠償金、
それに加えて貿易では多額の税金。
国民は
「誰か早くどうにかしてくれ!!」
と強いリーダーを求めるようになります
その中で生まれたリーダー
ドイツ アドルフ・ヒトラー
イタリア ベニート・ムッソリーニ
ドイツ、イタリア両国民はこのリーダー達に国の再建を託します。
この二人の共通して言える政治思想が
「ファシズム」
簡単に言うと独裁政治によって軍事力を強化し海外進出を狙う
と言ったもの。
今世界を騒がせているどっかの国みたいですね
そしてドイツがついに動き出します
1937年 東方に拡大政策をとることを宣言。
翌年オーストリアを併合。
当時工業の盛んだったチェコスロバキアも併合。
お次はポーランドかなと思っていた時に
イギリス、フランスがポーランドと安全保障条約を結びます
ドイツからすると挟み撃ちになる状態
西にはイギリス・フランス
これはさすがにやばいと思いソ連とある条約を結びます
「独ソ不可侵条約」
このころのソ連は日本と緊張状態であったためドイツと日本との挟み撃ちを避ける狙いがありました
この条約を結んだドイツはポーランドへ侵攻します
これに対しイギリス・フランスはだまっちゃいません
これにて第二次世界大戦勃発。
ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、そしてフランスをも降伏させる快進撃。
フランスの降伏によりイギリスは孤独の戦いを強いられることに。
イタリアはこの快進撃を目の当たりにし勝ち馬に乗ろうと
日本は長引く日中戦争の打開策として
ここに日独伊三国同盟が結ばれます
ドイツの次なる狙いはイギリス。
ですがアメリカが連合国への武器の援助を始めたことにより
中々ドーバー海峡の制空権を奪えません、
この時方向転換して狙いを
「ソ連の石油資源」
にシフトします。
えっ?
独ソ不可侵条約は?って感じですよね
ドイツはこの不可侵条約を一方的に破棄。
ソ連へと侵攻します。
これにブチ切れるソ連。
ソ連の反撃と強烈な寒さにより苦戦を強いられます。
ナチス・ドイツはドイツ人いわゆるゲルマン民族こそが優れた民族であり
その他の民族は排除すべき
という非常に危険な思想でした。
そして独ソ戦をきっかけにその思想は実践されることになります
ゲルマン民族以外の民族を排除するために
既に侵攻が完了していたヨーロッパ各地からユダヤ人、ロマ族、スラブ民族
また民族に関係なく、排除すべき思想を持っていると思われた人間を一か所に集めます。
その場所こそ
なぜこの場所だったのか
理由は単純。
ヨーロッパの中央に位置しており
各地方から人間を集めるのに地理的に適していたから。
そこで何が行われたのか
長くなってしまったので次以降へ。
本日も最後までお読みいただきましてありがとうございます
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記事の内容はかなり端折っており
かつ
少し皆様の認識とは異なっているかも知れませんが
あくまで僕の個人的見解でありまして
それが事実、真実であるとは言えませんので
どうぞ誤解のないよう。
次の記事もよろしくです
ポツダム宣言 の巻
みなさんこんばんわ
よんす。です
全然ブログ更新してなくてご心配おかけしてるかも知れませんが
えっ?
お前のこと心配してる暇なんかないって?
そんなこと言わずに読んでくださいよー
僕はいたって健康に過ごしてます
ハンガリーでは日本人宿にお世話になってますが
ここがまー居心地がいいのなんの
シェア飯あり
漫画あり
管理人が底抜けに良い人でめっちゃ居心地がいいのです
おかげで2泊延泊しちゃいました笑
ですが気づけば10月に入ってるではないか
旅もう終わるがな
まだヨーロッパやがな
ってことで再び動き出します
目指せインド!!
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もはや上位への熱は氷点下です笑
ただ
読んだよー
って証に1クリックしていただけると大変ありがたいです
時は遡りましてドイツ
ベルリンから日帰りで行ける場所に
「ポツダム」
という都市があります
「ポツダム」
社会の授業を普通に受けてた人やったら分かりますよね
電車で45分
ぼけーっとしてたらすぐに着きました。
駅から各見どころまでは少し遠いのでレンタサイクルをすることに
公共の交通機関を使う手もあったんですけど
ドイツをサイクリングするってなんか渋いじゃないですか笑
これが大正解!
ドイツの町並みを自転車で回るのはとても気持ちが良いのです笑
道も歩道、自転車用と分かれており走りやすい環境なのです
最初の目的地
サンスーシ宮殿
ドイツの歴史はまだ勉強不足ですが
知る人からしたら眉唾物の宮殿らしいです
まー
こんな黄色の宮殿あったら心惹かれるのもわかりますけどね
宮殿の庭園
宮殿の近くに風車があるんですけど(写真あげれず)
この風車は宮殿が完成した当初は宮殿の外観を損ねるってことで取り壊そうとしたらしいんですけど
農夫が壊さないでと嘆願しなんとそれを王が聞き入れた為、今なお残っています
っていうどうでもいいストーリー。
そして目的地の場所
「ツェツィーリエンホーフ宮殿」
一回じゃ絶対言えないこの宮殿が
あのポツダム会談が行われた場所です
もともとは宮殿で王族のものだったんですけど
王子が亡命したために国のモノに
そしてドイツが第二次世界大戦に敗れ
ベルリンの損傷が激しすぎた為この場所で会談が行われることになりました
外観
が訪れた同じ場所にいると思うと
鳥肌が
たちません笑
湖の畔にあるし宮殿っていうよりは別荘って感じですね
ここが会議が行われた場所
当時のまま
ここはさすがに鳥肌たちました
肘掛け椅子に首相、大統領が座り
両隣を外務大臣などの参謀が座りました
これが当時の写真
これはかなり鳥肌もんでした
まさに時代の節目の場所
この会議で敗戦国をどうするかどうか
まだ降伏していなかった日本をどうするか
などの話を長時間にわたって行ってたのです
日本語ガイドもあって音声聞きながら当時の風景を想像します
元祖BIG3
ベルリンの壁しかり
ポツダムしかり
かなり戦争への知識が深まりました
ここを訪れることによって戦争についてほんといろいろ思うことあったんですけど
もう
願いはひとつですよね
平和
ですよね
でも前にも書きましたけど
世界平和
って絶対実現しないと思います
色んな意味で。
でも
少しでも流れる血が減るように
無差別に奪われる命が少なくなるように
その一歩目って
無関心から踏み出すことじゃないかなって思います
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移動間隔が短かったり
宿での時間が楽しかったりするとついブログが後回しになっちゃいます笑
この記事が丁度85記事目なので(よく書いたと思いませんか?笑)
キリの良い100記事目でゴールを目指そうと思います
これからもよろしくね
それでは
よんす。
ベルリンの赤い雨 の巻
みなさんこんばんわ
ドイツに入ってからやたらと「ベトナム人か?」と間違われる
よんす。です
リアルタイムは26日 夜7時ポーランドのクラクフという町にいます
日本にいるとあんまりポーランドって聞き馴染みがないですよね
実際日本人もあんまり見かけませんし
ポーランドからは
どっちかっていうとメジャーではない国を回る予定です
俗にいう旧ソ連国ですね
なんでそんな国を回るのかって?
物価が安いからだよ
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さて
今日の記事は僕が回ってきた国の中でも数少ない先進国
「ドイツ」の話です
まー
いうても二泊三日の
しかもベルリンだけの滞在でしたけど
スペインからドイツまで飛んだわけですけど
その間にある国
イギリスやオランダ、ベルギーなど
その辺の国も正直行きたかったんですよ
でも何故行かなかったかって?
物価が高いからだよ
ドイツもベルリン以外にも
ミュンヘンとかフランクフルトとか行ってみたい都市もあったんですよ
なんで行かんかったかって?
金無いからだよ
もういいか笑
ベルリンに訪れた訳はひとつです
「ベルリンの壁を見たい」
だけです
動機は
小学生のころ読んだ漫画「キン肉マン」で
ブロッケンJr.が繰り出すこの技
キン肉マンってプロレス漫画なんですけど
なぜかブロッケンJrの必殺技だけ普通のチョップ笑
しかもこのチョップ尋常じゃないほどの威力なんです笑
普通に相手の体切り刻んだりしますからね笑
彼の父はブロッケンマンという超人でしたが
胴体を真っ二つにされるんです。。。
おっと
話が逸れた
時は遡り第二次世界大戦後
敗戦国となり連合国に全ての権限を奪われたドイツ
以下かなり端折ります
~連合国軍~
「さて ドイツやけど今後どうしてく?」
「んー とりあえず併合する?」
「どこが?」
「そうやなー」
「んなとりあえず四分割しとこか」
的なやりとりが行われてました
(主に っていうかほぼすべて米・英・ソによって)
話し合いを進めるも資本主義の米・英に対して社会主義のソ
中々まとまらずに結果出た結論が西側は米英が管理して
東側はソ連が管理するというもの
この時ドイツという国が二つに分けられました
そのなかでベルリンは
「首都やしお互いの中間地点ってことにして西側は米英、東側はソ連ね」
よく間違われるらしいですけど
ベルリンの壁ってドイツの真ん中を区切ってたんじゃなくて
東ドイツの中にあるベルリンを区切ってたんです
北朝鮮で例えると
平壌が南北で分かれて南側は韓国みたいな感じです
ってな流れで進んでいきます
そして日本が降伏し
これにて第二次世界大戦が終焉を迎えましたが
その後米英とソ連が今後の意見の方向性で真っ二つに対立します
そして次第に西ベルリン、東ベルリンの人々の暮らしにも差が生まれてきます
西側は資本主義なのである程度の自由が認められていく中
東側はいつまでたってもソ連に振り回されてばっかり
格差は見る見るうちに表れます
東側に暮らしていた人はより良い暮らしを求めて西側に移っていきます
「あかん こんままやと人おらんようなるで」
冷戦真っ只中だったソ連からするとなんとしても阻止しておきたい行為
そこで出た行動が
「よし 壁作ろ」
ってな具合で壁が建設されます
驚くことに一晩で
一晩ですよ一晩
朝起きたらこれですよ
恐ろしいですよね
いきなりあっち側には行けません
あっち側におる家族にも会えません
ですからね
んで
しましたがこのままやとお互い損するだけやってなって
冷戦が終わり
ドイツに統一の時が訪れます
同時にベルリンの壁も破壊されました
統一したものの当時のことを忘れないようにと一部ではありますが
壁は現在も残っているのです
それを見学に行ってきました
壁の一部
今もなお南北で分かれている朝鮮半島
韓国による統一の願いを込められて送られたモニュメント
統一の願いが込められています
壁
現存する壁が一番長く残っているところ
この場所には1.3キロの長さに渡って壁が続いています
崩壊後国内外のアーティストによって書き換えられた壁
中には日本人が手がけたものも
この絵は以前にも同じ絵が描かれていたらしいんですけど
ものすごい量の韓国への、日本への誹謗中傷落書きがあったため
書き直されたっぽいです
ここまで来てつくづくあほな民族
当時のソ連代表 ブレジネフと東ドイツ代表のホーネッカのアツいキス
そしてここが
当時の東西のチェックポイント
なんと記念撮影まで出来ます
僕はしませんでしたが
このベルリンの壁が崩壊したのは1990年でまだ30年も経っていません
この壁に対する感情や意見もまだまだリアルに残っています
僕はドイツの国政に対して知識は0ですが
ドイツ国民の中には壁があったほうが良かったと思っている人もいるそうです
国のあり方とか
そんなスケールのでかいことを考えるほど僕は知識人ではありませんが
こと
「歴史」
に関していうとすべての人間が関心を持たなくてはいけないことだと思います
こうして振り返ってみると学生時代は歴史なんてただの暗記モノ
ぐらいにとらえていました
みなさんもテストで点をとるためのモノぐらいしか思ってなかったんじゃないでしょうか
それがこうして足を運び
目で見て
肌で感じ
より深く学ぶことで
やはりその重要性を認識します
僕が旅中に感じたことのひとつに
「自分の無知さ」
というものがあります
小学生のころから野球にだけ打ち込んできた為に
勉強をおろそかにした結果
こうして無知の自分が出来上がったわけです
かといって別に歴史っていうジャンルは知らなくても生活になんら影響は及ぼしません
ですが
知っていて当たり前のことを知らないことは恥ずかしいってことに気づきました
それと同時に勉強する楽しさ
知識を増やす喜び
を肌で知ることが出来ました
日本における歴史への関心度の低さ
=
現政治への関心の低さ
に繋がっている気がします
国籍は置いといて
自分が住んでいる国に関心がないということはあまりにも
恥ずかしいことです
ってちょっと旅してるからってイキッた記事書いてみました
何回かはこんな記事続くと思うのでよろしくお願いします笑
本日も最後までお読みいただきましてありがとうございます
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アカウント yuki.a.k.a yonsu
いっつもほぼ思い付きの殴り書きブログなので
文章としてのまとまりに欠けてますけど
なんか伝わったらなと思います
気づけば9月ですね
ポーランドの今朝の気温は9度でした
この9カ月あまりで何回四季が回ったか分かりません笑
アジアに行けばまた暑いんやろなー
じゃまた
よんす。
天才の成せる業 の巻
みなさんこんばんわ
よんす。です
リアルタイムは21日夜12時
ドイツのベルリンにいます
なんだかんだこの旅も24か国目に突入しました
まー
別に行った国の多さとかはどうでもいいんですけどね
スペインを出たことでお別れしたものがあります
それは
「スペイン語」
思えば1月チリに着いた時は「オラ」しか知らなかったのが
8カ月経った今では英語よりも理解できるレベルになったのだから驚きです
(もともと英語のレベルもそれほど高くない笑)
旅をしながら独学を続け
これまでの旅=スペイン語
みたいな一面もあったように思います
やはり8カ月慣れ親しんだスペイン語とお別れするのは寂しいですし(たかが言葉)
せっかく聞きなれた&話しなれたスペイン語が今後聞けなくなるのは少し物足らなく感じるでしょう
ただいわゆるラテンアメリカを旅してきて新しい世界が広がったのは間違いないです
言語だけでなく
文化
人生観
その他
ラテンのパワーを身をもって感じましたし
今現在テロの恐怖の中にある世界を今後盛り上げていくのはラテンだと思っています
今後スペイン語が僕の生活にどう影響するのかは分かりませんし
なんならもっと勉強したいけど
まー
いろいろ考えていこうと思います
っていうかこれから英語中心になることでスペイン語能力が落ちるのがちょっと残念です
ま、でもこれからは英語頑張ろうと思います
前置き長っ
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今日の記事はバルセロナ
バルセロナといえば
真っ先に頭に浮かぶのは
「メッシのいるバルセロナFC」
って人はサッカー好きぐらいでしょう
多くの人の記憶に新しいのは
「バルセロナ テロ」
ではないでしょうか
スペインから距離のある日本だとどうしても
バルセロナ=スペイン
になり
「えっ スペインでテロあったん!?こわ!」
となってしまいますよね
ただ
スペインの首都マドリッドはほんとにテロあった国?
と思うほど町全体に緊張感や不安などの負の雰囲気は無く
人々は変わらず明るい表情で生活をしていました
強いて言うなら警察が増えたぐらいでしょうか
じゃあ当のバルセロナは?
と思い行ってみたのですが
マドリッドに負けないぐらい観光客は多いし
町全体も活気に溢れていました
バルセロナの町
スペインに総じて言えることは道が分かりづらい
あちこちで地図広げてくるくる回してる人ばっかり笑
コロンブスの塔
多くの観光客で賑わってました
実際にテロがあった通り
歩いてみて
「えっこの道?」
って思うほど。
この道を車が暴走したと思うと背筋が冷たくなりました。。
写真はテロで亡くなった方達へ手を繋いで祈りを捧げる学生たち
コロンビアで日本人が殺害された公園に行った時も
今回訪れたこの場所も
共通して感じたことは
想像することが出来ない恐怖や危険は想像もしない様な日常の中にあるということ
何も起きない毎日が当たり前ではなくなっていっているということ
その中で忘れては行けないのはやはり感謝の気持ちではないでしょうか
サグラダファミリア
僕は建築とかにはあまり関心が無いのですが
何かと話題になるこの建物
どんなもんかと行ってみました
ちなみにガウディのことも無知。
感想
ガウディってもしかして天才?
僕の写真で伝わるか分かりませんがとりあえず
外観
おおーーこれか!!
ていうか結構町中にあるのね笑
画になる夫婦
いや愛人かも知らん
内部
森をイメージしているらしい
この支柱はそれぞれが木
どうやって考え付いたかも想像できないほど色鮮やかなステンドグラス
こんな色彩を人間が考え出せることに感動です
内部その2
建築の素晴らしさに圧倒され言葉を失います
本物の森よりも生命のパワーを感じます
天井
まるで万華鏡を覗いたみたい
色鮮やかなステンドグラス
東側のステンドグラス
東側は暖色系を使用していて夕陽を浴びて幻想的な光を生み出してます
逆に西側は寒色系を使用していて
写真は日が暮れていた時に撮ったのでいまいち伝わりませんが
朝には朝日を浴びて1日の始まりにふさわしい爽やかな光がカテドラル内を包みます
永遠に眺めてられる
正面入り口の生誕のファザード
ここにはイエスキリストの生誕と幼少期が表現されています
裏側の出口の受難のファザード
こちらにはイエスキリストの苦難が表現されています
生誕のファザードからの眺め
旅の中で多くのカテドラルを見てきましたが
ダントツで一番素晴らしかったです
まー
でも
カテドラルは本来祈るための場所なので優劣を決める対象にはなりませんが
っていうかサグラダファミリアで礼拝とかしても
建築に夢中で集中できないでしょうね
そのためか地下にひっそりとした礼拝堂もありました
ガウディが没しても尚続く建築作業
完成予定は2026年だそう
自分が生きている内に完成出来ないものを想像するなんて
ザ・平民の僕には到底たどり着けない境地です
サグラダファミリアの他にも
バルセロナオリンピックの会場になった場所にも行ってきました
がらーん
メイン会場
ぽつーん
オリンピックの野球場とは言えないぐらい質素
ベンチ
ヨーロッパの野球関心度が垣間見えます
サグラダファミリアは完成するころにもう一度訪れたいと思えるほど
素晴らしい建物でした
おわり笑
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スペイン語でもなんとか通じましたが
ドイツ語はまったく理解不能です笑
しかもここから日本までの国は英語圏でもスペイン語圏でもないので
どうなることやら。。。
では健闘を祈ります笑
よんす。
ちょっくらポルトガル の巻
みなさんこんばんわ
よんす。です
かなりブログの更新が滞っていて
もしかして心配してくださってる方もいらっしゃるかもしれませんが
なんてことはありません
単に沈没(何もせずだらだらすること)
していただけです笑
知人のお家に居候をさせてもらってるのをいいことに
観光もそこそこに
だーらだらとしておりました笑
しかしその沈没に終止符を打ち
なんだかんだ1か月近く滞在したマドリッドを離れ
昨日バルセロナに来ました
そして明日の飛行機でドイツ ベルリンへと入り
そこから鬼の弾丸で東欧を制覇し
恐らく最後の難所であろうインドへと入ります
ブログもあと何回書くか分かりません
お気持ちだけでもポチッとよろしくお願いします。
リアルタイムは19日夜12時
スペインのバルセロナにいます
今日の記事はポルトガルへプチ旅行した時のお話です
スペインとポルトガルは同じ半島の中に隣同士にあり
スペインの首都マドリッドから
ポルトガルの首都リスボンまでバスで7時間程度で行けちゃいます
最初は行く予定の無かったポルトガルですが
そんなに近いならと行くことにしました
実はポルトガル
近年日本からの旅行者が増えているらしいです
テロが増えているヨーロッパ内でも
安全に旅行でき
世界遺産も多いこの国は日本だけでなく
ヨーロッパ中からも多くの観光客が訪れます
なので僕も主に世界遺産を求めて旅行することにしました
宿泊代と移動費の節約のため夜行バスで行くことにします
ポルトガル行きのバス車内
さすがにこの色は初めてや
こんなにも緑!
わからん笑
しかも隣に座ったおじさんのいびきがいかつすぎて全く眠れない
一睡もできないままリスボンに到着
僕は二泊三日というスケジュールなのでホステルに荷物を預けそのまま町へと繰り出します
まずはベレンの塔
ここはかつてポルトガルが大航海時代、海の覇者だったころ要塞の働きをしていた建物
の模型
国旗
真ん中がポルトガルの国旗
この国旗を見るとクリスティアーノ・ロナウドを連想しちゃいます
そのまま海沿いを歩いていくと
大航海時代と言われていたころ
まさにポルトガルの黄金時代の歴史を記念して作られた
「発見のモニュメント」
並んでいる像は世界の海へと乗り出した航海士や宣教師たち
中にはフランシスコザビエルも
そしてこの像の下には
このようにポルトガルが世界各地へ到達した年が書かれている世界地図が
日本には1541年の到達
日本はこのポルトガルの到達によって鉄砲が伝わり
戦国時代へと突入。
同じくしてザビエルによるキリスト教の宣教が始まる
世界の海を支配し
巨万の富を得た時代に建てられたものが
航海士のヴァスコ・ダ・ガマによってインド航路が開拓され
当時インドにしか無かった胡椒を大量に持ち帰り
その胡椒で富を得ます
なんとその胡椒が驚異の利益率260%を叩き出したので
危険をかえりみず多くの人が海へと出ました
それにしても260%て
その功績を記念してこの修道院の中にはヴァスコ・ダ・ガマの棺があります
厳粛。
花びらみたいな彫刻が胡椒の花をイメージして作られたらしい
中庭。
かっこよく撮ってみました
お次はサンロケ教会
ここは1584年、日本からの使節団が1カ月滞在した教会です
イエスズ会の本拠地だったところ
ちなみに日本の使節団は1582年に日本を出発し
二年半もの時間をかけてリスボンに到着しました
当時の使節団の目にはこの黄金時代の最先端の建物はどう映ったんでしょうね
そしてお次はぺナ宮殿
ここはドイツのノイシュヴァンシュタイン城と作りが似てるらしく
兄弟関係にあるらしい
知らんけど
王族達が食事をとっていたところ
こんなところでどんな料理を食べていたんだろうと
庶民代表の僕はついつい想像をめぐらしちゃいます
間違ってもキムチは出なかったでしょうね
ほんで
一番端にはそのモニュメントもあります
これ
ここから先は大西洋が広がっていて
コロンブスによる新大陸発見まではここが世界の果てだと思われていました
さぞ景色も壮大なんやろなと思ったら
霧!!!
なんも見えん
この写真は僅かなチャンスをものにした写真です
ま
こんな感じで二泊三日リスボンを堪能しました
学生のころはまったく関心の無かった世界史なのに
こうして実際に訪れることでかなり興味が湧きます
そしてスペインもそうですが
中南米では点だった歴史が
スペイン・ポルトガルにきたことで線となり
より強く理解が深まります
歴史っておもしろい!!
海はどこも綺麗
かっちょよく笑
じゃあ今日はこの辺で
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最後にポルトガルといえば
の路面電車。
これからは頑張ってブログ書きますので
引き続きよろしくお願いします
それじゃ
よんす。